茶道の精神とは 下载本文

序号(学号):

2002110047

毕 业 设 计(论 文)

茶道の精神とは

姓 名 学 院 专 业 班 级 指导教师

2006 年 6 月 11 日

目 次

摘要…………………………………………………………………… 序論…………………………………………………………………… 本論…………………………………………………………………… 1 茶の湯の歴史……………………………………………………… 1. 1喫茶の起源-中国………………………………………………… 1.2喫茶の渡来-鎌倉時代 ………………………………………… 1.3闘茶?庶民の茶-南北朝時代/ 室町時代……………………… 1.4書院式喫茶-東山時代……………………………………………… 1.5わび茶の成立-桃山時代……………………………………… 2 和敬清寂…………………………………………………………… 3 利休七則…………………………………………………………… 3.1花は野にある様…………………………………………………… 3.2炭は湯の煮ゆる様 ……………………………………………… 3.3服は加減のよき様に………………………………………………… 3.4夏は涼しく、冬はあたたかに……………………………………… 3.5刻限は早目に ………………………………………………………

3.6降らぬとも雨用意………………………………………………

3.7相客に心をつけ候……………………………………………… 結論…………………………………………………………………… 謝辞…………………………………………………………………… 参考文献………………………………………………………………

摘 要

茶の湯は日本の文化、芸術の結集、総体性とも言われ、どの角度から入っても底なし沼のように奥深いものである。茶道について認識を新たにしなければ日本の文化は理解できないと考えられ始めている。 茶は、その原産地は中国である。点茶法を日本にもたらしたのは鎌倉時代の禅僧栄西である。室町時代に闘茶が盛んになった。東山時代には書院式喫茶が形成された。書院の茶、闘茶、庶民の茶の三つと禅寺院での茶礼を合わせ、一本化したものが村田珠光の作った茶の湯である。 武野紹鴎は、茶の湯をより深く精神的なものに高めた。利休は茶の湯を体系化し、総合芸術へと大成させた。 「和敬静寂」ということは、古くから茶道の法則、しかも茶道の倫理法則とかモラルとか考えられて、茶道の重要な精神とされてきた。「和」はお互い同志が仲良くする、和し合うということである。次の「敬」はお互い同志が敬い合うという意味である。次の「清」は清らかという意味である。最後の「寂」はどんな時にでも動じない心であるといえる。単に人間の、あるいは人間の間における倫理的な法則にとどまるべきものではない。それは事物人境における和 茶道には「茶禅一味」という言葉がある。禅精神のすべては敬清寂でなければならない。

利休七則とは「花は野にある様、炭は湯の煮ゆる様、服は加減のよき様に、夏は涼しく、冬はあたたかに、刻限は早目に、降らぬとも雨用意、相客に心をつけ候」ということである。これは茶道の最高の精神でもある。無相の自己を自覚し、真の自由を手に入れることにある。茶道もその精神は、「無我」。つまり精神を解放し、真に自由となることである。これらのことが、茶と禅とを切っても切れない関係にしているのである。

茶道は芸術であるとともに、茶道こそは、めまぐるしく変転極まりない世界に対処し、行き詰まった現代人の心の救済をなしうる。ただ一つの光明であり、 心の道なのである

キーワード

茶道精神 和敬清寂 利休七則 茶禅一味

序 論

茶道は戦後日本の伝統文化の一つとして、日本国内はもちろん、海外にもその豊富で総合的な内容が認められてきた。そして実社会に活躍している人たちや若い知識階級の人たちの間でもこの茶道について認識を新たにしなければ日本の文化は理解できないと考えられ始めている。

茶の湯は日本の文化、芸術の結集、総体性とも言われ、どの角度から入っても底なし沼のように奥深いものである。しかし基本的なことは、人の心と心をつなぐ一碗のお茶とお菓子である。「一服如何ですか」「頂戴します」そのお互いの心と心を思いやるために、芸術ひいては、宗教的な精神の域まで達したと言える。そして日本人の持つ繊細さや美意識、謙虚さ、それら全てが統合され、研鑽され、無駄のないお手前という形で体現された。ある人は、陶器の美しさに惹かれ、またある人は書の精神性に触れ、灰型の美しさに惚れ、所作の美しさに憧れ、精神的な境地に触れ、静寂に身をおきたい、等々。

茶を点てて飲むことを「渇を医するに止まる」と茶祖千利休はいっているが、ただそういう喉の渇きをいやすという欲求を満たすだけの手段ならば、別にさほど面倒な手続きを経て一服のお茶を飲むには当たらない。 世の中には事を起こしては平和を損なったり、目上の者、自分より優れた人物などを退けてまで、自分勝手な、羽目をはずした行動をする者の多いことは実に嘆かわしいことである。人の気持ちが、こう言った疎ましさから離れて、みんながもっと幸福であるようにと反省しつつ、習ったことを実際に行い、その手段を自ら納得して修得していくのが、茶道の道ではないかと思うのである。

本 論

1 茶の湯の歴史

1.1 喫茶の起源-中国

茶(学名:カメリア シネンシス)は、陸羽(783-804)の著した『茶経』の冒頭 茶は南方の嘉木なり、 にあるようにその原産地は中国南方の地帯、四川、雲南の国境方面と考えられている。 飲茶の風習は漢代には知られ、唐代に広く普及するようになった。茶に関する最古の古典『茶経』は、三巻に分かれ、と十章に分かれ、唐代までの茶葉の歴史、産地、効果、栽培、採取、製茶、煎茶、飲用についての知識と技術を論じています。

1.2 茶の日本渡来

茶が最初に中国から日本にもたらされたのは8世紀と考えられています。

当時、日本は遣唐使を派遣して、唐の文化を積極的に受け入れていました。茶もまた、唐の最新の文化として日本に持ち帰られたのでしょう。 確かな日本に伝播し鎌倉時代のはじめ栄西(1141~1215)によって薬としてもたらされた抹茶は、禅宗寺院を中心に普及し始め、のちに嗜好飲料として飲まれるようになりました。それとともに日本各地に茶産地がつくられ、徐々に

日本人の間にお茶が広まっていきました。

1.3 闘茶?庶民の茶-南北朝時代/ 室町時代

鎌倉時代の後半から、南北朝、室町時代の中頃にかけて、お茶が薬から日常の飲み物として広がる中で、武家や公家の間に産地を当てる\闘茶\が流行り、酒宴の中の遊戯となった。民衆の間でも\講\を作って酒食を楽しみ、お茶を飲む集まり、\淋汗茶の湯\が流行した。

闘茶というのは、何種類かのお茶を飲み、本茶である栂尾産の茶であるかどうかを当てる遊びで、当てた得点によって賞品が与えられました。

何回もお茶を飲むので、十服茶、五十服茶などという別名もあるほどです。 闘茶を行なう場所は二階建の会所で、その階上を喫茶亭と呼んでいました。またそこの主人のことを亭主といい、後に茶会の主人のことを亭主と呼ぶのは、ここから始まったのです。

「一服一銭」茶はこうして一般社会の人々の間にも、寄り合って茶会を開く風習が広まりました。 庶民にも簡単にお茶が飲めるようになり、「一服一銭」と呼び声をたてる立売茶があらわれ、やがて茶店も生まれました。